大正13年5月23日午前11時10分。どの宿も昼食準備に追われている時間帯に、何の前触れもなく北但大震災は起こりました。当時では最高のレベルである震度6の地震。震源に近い城崎や津居山では地面が強烈に上下動したといいます。木造二階建て三階建ての旅館や商店、民家では、一階部分が押しつぶされました。温泉街の約10ヶ所で出た火は風にあおられ温泉街をなめ尽くし一面を焼け野原にしました。震災による死者は城崎町だけで272人に昇り、各旅館秘蔵の膨大な書画骨董や古文書、麦わら細工の名品、四所神社や蓮成寺、本住寺とその大しだれ桜まで灰になりました。

 焼け野原で立ちすくむ町民に、まず叱咤激励を飛ばしたのはそのときの町長・西村佐兵衛でした。季節はずれのだぶだぶのコートに地下足袋姿、首からメガホンをぶら下げて焼け跡を走り回りました。地震直後、城崎小学校の児童や教師を励まし、その足で6つの外湯の温度を測り「この湯が湧き出る限り城崎町は発展するのだ」と確信したのでした。

 
 四所神社にむしろをひいて開かれた町民大会で、温泉街の復興を第一とし、まず外湯の復旧が進められました。西村町長は母校・早稲田大学の人脈をあたり、美方郡出身の吉田亮二博士と建築家の岡田信一郎に建築設計の依頼を行いました。岡田氏は銀座の歌舞伎劇場や丸ノ内の明治生命ビルを手がけ、"様式建築の名手"と讃えらた人物です。その特徴は桃山風建築様式の一の湯に現れています。今は一の湯の前にある湯呑場も、当時は一の湯のすぐ隣(石碑と歌のポストがある場所)にあり、和の趣の在る小屋が建てられていました。このとき岡田氏は仏堂の趣を持つまんだら湯も手がけました。現在はどちらも改築されましたが、岡田氏の作りだした趣は引き継がれています。
大正時代の一の湯 昭和初期の一の湯

湯のみ場(昭和10年)

 
 

 また、道路・河川・その他の公共施設が整備され、外湯を中心とした旅館・商店・歓楽街等、現在の城崎温泉の骨格が概ね完成しました。柳並木、桜並木、大谿川にかかる太鼓橋。当時は「人力車が通れない」やら「家の前に柳は目障り」やらと反対の意見も多かったそうです。今では城崎の情緒を語るのになくてはならないものなのですが、スムーズに今日の形になったわけではないようです。